「死にたい」と言われたら、みなさんならどうするでしょうか (日米比較)?
日本とアメリカの精神医療での、徹底的な違いは、この「死にたい」という言葉への対処方法ではないかと、私は思います。
アメリカでは、もしも誰かが死にたい、と言えば、それがどういうことなのか、本当に、自殺する計画があるのか、手段も考えてあるのか、それとも、今の状況から逃げ出したいのか、絶望しているのか、鬱からきているのか、ただ癖のように言っているのか、それらをアセスメントするために、救急外来を受診することが、精神科医療、教育の現場、職場のカウンセリングなどでは、定説になっています。
そこまで追い込まれているのなら、専門家のアセスメント、そして介入が必要だということです。
私は、アメリカで看護師として働いているときも、希死念慮についてのアセスメントは、必須項目でした。
そして、同じ死にたい、にも、いろいろな意味が、あるということを学びました。
人によって、それぞれ、死にたい、の意味する内容が違うからです。
でも、日本では、多くの方が、死にたいと医師に言っても、何もしてくれない、薬を増やされる、そのことをじっくり聞いてくれない、看護師も、正面から受け取ってくれない、と聞きます。
これは、ごく一部の人たちの体験でしょうか?
確かに、私が、日本の病院で、患者さんに、死にたい気持ちについて、じっくりお話を聞いたとき、
患者さんから、
このことについて、こんなにじっくりと話せたのは、初めてです。
と言われました。
「そんなこと考えないで!」
「そんなこと言ってないで!」
「大丈夫!」
あるいは、死にたいと言っても、
そのまま素通りされる、
知らないふりされる。
ということが多かったというのです。
確かに、そんなことを聞くのは、看護師としても怖いです。
辛いです。
どうにかしないと、、と思ってしまいます。
でも、私の中の信念は、
「死にたい」気持ちの裏側には、
何らかの大きな悩み、苦しみが、絶対にあるということです。
だから、それを、どうにか出来たとしたら、
それでも、本当にその人が死にたいと思うのかどうか、
ということで、一緒に考えるようにしています。
何らかのうつ状態からきているのであれば、
それが改善できれば、もしかしたら、死にたいとは思わないのでは、
と思うからです。
死ぬ権利があるはず、というかもしれません。
でも、生まれからずっと、大きくなったら、『死にたい』と
答え続けてきた人は、いないと思うのです。
今、何らかの状況だから、
だから死にたくなっているのだと思うのです。
そういう人たちの気持ちに寄り添うこと、
とても大事にしています。